Matsue Nihon Kirisutokai

獅子 力牧師証詞

 我を信ぜよ

  道即真理即生命 
  ヨハネ伝一四章1〜14節

 この度、思いがけなくO姉の手術に出合い、私たちの集会は多くを学び、誠に豊かな祝福を味わい感謝に満ちました。
 まさか、O姉妹にこれ以上の病が起こらなくとも……と思うことであります。だが、人生には、まことに意外なことが起こる。そして、誰も、まさか自分は……と思っているが、実は誰にでもやって来る。今、自分にその心備えがあるか。救われているか。
 救いとは、自分の的外れに気付いて主に在る日常生活に目覚めることであります。この一事をぬきにしては、「いざ」と云うとき、私の方が正しいとか深いとか、論や比較は全く意味をなさない。環境や行きがかりや人様でなく、自分自身にあるかなきか、本音だけが問われます。

 Ⅰ 信(我〔イエス〕を信ぜよ)

 引照の1節には二つのことがあります。汝ら自身の心を愁しむるなと、神を信じ我を信ぜよであります。
 そのとき、弟子たちは、力と頼むイエス様と今生の別かれになろうとしていた。浜辺で漁の最中に、イエス様に呼ばれて従がったおのぼりさんの若者たちが、突然、その主イエス様を失い、祭司学者たちとロマ帝国の前に立つのである。自分の身に置きかえて見ればよい。
 今、キリスト会も牧師も、家も職業も貯金もない無一文で、尚自らのうちに信ずるところがあるか。心騒がすなと云う方が無理かも知れない。
 だが逆に、「心騒がせば」どうにかなるのか。白血病のG姉は、「どんなにいじめて見ても。自分の中からは何も出ないものですね……」と告白しました。寝ずに考えても、自分は自分に過ぎない。だから私は、自分が疲れるたびに、「また傲慢になっている」と、肩をすくめた。病気、天災、人間関係……どんな種類の事柄であっても、ぎりぎりのとき、世の地位や金や学問の量に何の意味があるか。これは、味わった者だけが識ることであり、そのとき、「汝の心を愁しむるな、我を信ぜよ」とおっしゃるイエス様をもつ者は、福な者であります。
 私は、電話を受けて、見舞う車中で祈りました。傲慢になってはならぬ。自分の努力や配慮では間に合わぬ。「姉妹自らのうちに在す主、そして、私のうちに在す主をして働かせまつらん、そして、自ら限りをつくして愁なし」、と根本態度を定めしめられ、これを貫きました。

 Ⅱ 悟 (備えられた住居)

 なぜ、信じて居れるか。2〜10節に、弟子たちとの問答が続きます。
 イエス様は、「父の許なる住居=我が在るところに、汝らも居らしむるために去り、場所を備えて汝らを迎える……(3)」と約束して下さいました。その、「イエス様の在すところ」は何処か、どの道を通ってゆくか、と惑うトマスやピリポに対し、イエス様は、「どこそこの場所でも、道路でもない。この我〔イエス〕が道なのだ。我を見た者が父を見たのだ。我が語る言葉は、肉の我が語るのではなく、うちなる父がその行を為し給うままに我語る=我はその如きところに居るのだ……そして、汝らも、そのときには我に居り、我は汝らに居ることをはっきり識る……(6〜10、20)」とおっしゃいました。
 それは、遠い先の約束ではない。自らの生命の自覚のままに生き給うイエス様の如く、私たちも、自分のうちなる主に教えられ、主と偕に生きる喜びを、今確かに味わっています。(六・57)。つまり、主が導き迎えると約束されたその住居に、今現に住み込んで主と共に生きている。常々に主と偕なる、その無死の自覚故に平安なのであり、日頃イエス様に求める者の確信はここにあります。
 いざと云うとき、いくら信じたくても、共に在さぬ方を当には出来ない。だが私たちは、「我と父とは一なり。(ヨハネ十・30)」と、うなずき合って喜ぶことが出来ました。そして、「私の主イエス様、私に何をさせられるのか存じませんが、ただ、委ねた生活であることが出来ますように。そのことで、主の国があることが証しされますように……奉仕下さる医師、看護婦さんのためにも……」と、祈りを合わせて感謝を捧げました。

 Ⅲ 力(我〔イエス〕それを為すべし)

 イエス様は、更に言葉をついで、「我を信ぜよ……汝ら、何事でも我が名に在って求めよ、我これを為すべし……(11〜14)」とおっしゃる。 
 これこそ、力の鍵であります。人間とは弱い者、たとえ「我死なず」わかり切っていても、生身を切れば痛み、別れは寂しく、雨降ればぬれねばならぬ。それでこそ人間であり、手術前夜、さすがのO姉も術前検査と緊張に疲れていた。私たちは黙って祈った。そして、祈りの喜びを味わった。姉妹も、「弱りそうになっていた自分を助けて下さって、誠にありがとうございます。早く元気にして下さいますように」と、主にお願いされた。
 私たちの主イエス様は、ただ道を教えて立ち去る教師ではなく、「何でも、この我が名に在って求めよ、我がそれを為す……。(何でも与えるは誤訳)」とおっしゃる牧者、また保証人であります。 
 つまり、キリスト道は、私たちの努力で善行を積み立てるのではなく、この保証人の真実に貫かれて生きる本来の自分(これぞ善)の復活であり、主と偕だから常々天国であり、悟らしめられたそのイエス様御自身にすべてを相談し=自分のうちなる主が共に働いて最善を為さしめて下さればこそ力なのであります。

           ×    ×    ×

 自分自身は、たとえ、事ある度にうろたえる愛嬌者であったとしても、既に主との親しき交わりに目覚めしめられ、揺ぐことのないお方の真実に貫かれて生き得る私たちは、誠に福な者であります。
 局部麻酔手術の二時間を耐えた姉妹が、「ほんとうに平安で、何の不安もなく祈っていることが出来、このように育てられたことを感謝致します」と、主への感謝を捧げられた。この間、松江会初期の兄姉も共に立って祈りを合わせしめられたことは、云い難い喜びでありました。
 つまり、私たちは、自らを誇り得る者ではない。悟りとは、主イエスに在る自分に気付くことの悟りであり、この主に学び、この主に求め、従う者と偕に生き給う主を喜ぶことの悟りであります。
 だから、いつまでもさまよってはならぬ。道は我がうちに在り、私はもはや求道せず、ただ、主イエスに求め続ける。(創世記二・17)
 この道に生き、道なる主イエスに従って行ずるのみ。私の主をして働かせまつり、うなずくままに自分の限りをつくして楽しむこと真、底に生命の溢れるを見る。道即 真即 生命なのであります。    
             (松江会報第94号 昭和49年9月15日より)

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