Matsue Nihon Kirisutokai

森 豊吉證詞

森 豊吉證詞集より

クリスマス考         森  豊 吉

 クリスマスの讃美歌の中で、101番の3節、4節が、今の私にはぴったりする。それは、
 (3) 神なるイエスこそ 罪とがきよむる、きずなき小羊 救いの君なれ
 (4) よくこそましけれ 貴きイエス君、いかなる物もて 君をばもてなさん
 というのである。故にクリスマスは誰にでも完き讃美ができるものであるというわけにはいかない。十二月になると街頭はクリスマス・セールなどで賑やかであるが、却って淋しい感がすることがある。
 基督教の集会でも気を付けなければならぬ事であると思う。此の讃美歌でも明らかな様に、私たちが罪を自覚し、悔い改めの水のバプテスマを受けて罪を赦されイエス様を信じ、其の教訓を守り従って遂に、イエス様をキリストと識るに至って始めて私たち自身を識り、其の幸福を感謝できる霊のバプテスマを受けて「いかなる物もて 君をばもてなさん」の賛美の祈りが口から出る様になる。いかなる物もて君をばもてなさんは、言葉を換えると「何を以て君をば喜こばさん」ということで、これに対する主の御返事は「我れ汝等を愛せし如く、汝等互に相愛せよ」であるに違いない。そこで我等は自身の心の内で「イエス様に真に愛されているとシミジミ感じているかどうか」という反省が湧いてくる。此の反省に及第したものはクリスマスを心から祝うことが出来、同時に自分自身の霊の誕生(第二の誕生)と自分自身が此の世に肉で生まれた誕生日(第一の誕生)も心から喜ぶことが出来る様になるということがわかる。これを別の方から考えてみると、聖餐式に対すると同じことにあると思う。マタイ伝二十六章28、29節の様に「そは是れ新契約の我が血にて、多くの物に就きて罪の赦のために流さるるものなればなり。されどわれ汝等に云はん、かの日我が父の国にて、新しき(もの)を汝等と共に飲むまで、葡萄の此の実より(のものを)我は必ず飲まじ」
 よくよくクリスマスを考えてみてもまた聖餐に与る心構えにしても、要するに主イエスキリストと己自身との関係の問題であることに気がつく。第一コリント書十三章12節Bの如く「現に我の知るは部分なり、されどそのときは我の審かに識らるる如く我も審きかに識るならん」に至って、クリスマスに対する考えも完きものとなるのであるというべきである。

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